年齢

『女性に年齢を尋ねるのは失礼なことだ』
これはかなり世間一般的に認められている“常識”ではないだろうか。

では何故だろうかと思う。
大抵の人間は、若く見られていようだ。
嘗て学んだ先生の中に、実年齢はわからないが、六〇歳だと自称していた女教師がいた。
まだ、自分は幼かったが、あきらかにそれよりは一〇以上は年下に見えた記憶がある。
明らかに嘘とわかる年齢なら、冗談として、かなり上の年齢も答えることが出来よう。
一番厭なのは、恐らく微妙に近い時であろう。
いっさいや二歳見間違えられた所でどうだというのだ、とも思う。
“若い方が良い”という何かしらの固定概念に囚われている証拠だ。
『女性に〜』という発言をする人間は、その差別的観念に囚われている。
そう思えて仕方がない。
そして、言い当てられたり、少し年上に見られたりするのは、人間として生きてきて表に現れる貫禄の証拠ではないのだろうか。
『貫禄があるように見える』(もしかしたら、苦労で疲れ果てているのかもしれないが)それはそれで良いのではないか。
逆に、若く見られるということは、それまで生きてきた人生の修練が未熟な所為ではないのだろうか。
だから、年相応が、一番いいように思われる。
(職業によっては、年齢より貫禄のあるように見えることを望む場合あるかもしれないが)
最近では男性にも、そういう傾向が見られる。

ところで、自分はどうだろうか。
正確な年齢を答えているだろうか。
そう問われると自信は無い。
何故なら、毎年年齢が変るからだ。しかも誕生日を向かえる毎に。
その日が己の誕生日であることすら擦れてしまいそうな自分に、どうして正確な年齢がわかろうか。
どうしても知りたい相手には、相手に生年月日を伝え、計算してもらうようにしている。
その為には、西暦で覚えるのが一番だ。
“平成”となった今は、“昭和”昔の話。
しかし、ご年配の方は、“大正”や“明治”で答えてくる。
これでは、計算が出来ない。(自分の頭では)
アンケートなどでは、仕方なく年齢を書くこともある。
しかし、一、二年のずれは出てきているだろう。

それと、生年月日を記入する場合だと(しかも西暦)たまに、現在の年を書いてしまったり、百年前の年を答えてしまったりする場合もある。
歴史の年号を覚える時に、自分が生まれる百年前だ。と覚えたからである。
月日は、一応覚えてはいる。ただ、その日が何月何日か忘れるだけだ。